その人の名は「五十嵐健治」
そう、クリーニングを語る上では欠かすことのできない人物。
日本初のドライクリーニングを始めた人物であり、クリーニング業界NO.1の実力と信頼を持つ「白洋舎」の創立者でもあります。
しかし、その生い立ちはとても過酷で想像を絶するものだったようです。
五十嵐健治の生い立ち
明治10年、新潟県会議員、船崎資郎の次男として生まれています。
幼くして両親は離婚、五十嵐家の養子として引き取られるも、小間物屋、呉服屋、酒屋、旅館など様々な場所で奉公人として勤め、幼いころから実業家の道へ進む夢を持つ青年でありました。
しかし、その道のりは決して楽なのもではなく、まさに過酷の一言だったようです。
五十嵐が語った言葉があるので見てみましょう。
『仕事というのは、木を切り倒し、根株を掘り出し、排水路を作る仕事である。
その晩には肩が腫れて痛く…足腰は痛くてしゃがむこともすらもできない。
休みたいと思っても「この野郎ずる休みだな」と言われて部屋から引き出された。
肩の肉が破れて血が流れ、手のひらの豆も破れて血が流れる…
一日立ち通しであるから足が腫れて便所にいってもかがむこともできない…
その苦しさはたとえようもないもであった。』
これは北海道に渡ってひどい重労働を受けた際の、タコ部屋での苦悩を書いたものです。
逃げ出して見つかると命がない…しかし五十嵐は意を決して脱出を試み、成功しました。
追手から無事逃れることができたものの、ふと振り返ってみると宛てもなく無一文状態。
仕方なく以前に行ったことのある小樽へと向かうことになります。
昔は今とは違い、このように強制労働させられることもありました。
今の時代がどれほど安全で自由なのかということがよくわかりますね。
キリスト教徒になる洗礼を受ける
空腹に耐えながらも歩き続けてきましたが、もう精神的にも肉体的にも限界でした。
五十嵐は途方に暮れて自殺しようと海辺を歩き続けたこともあったようです。
そんな時、とある旅館の玄関口で何にかに誘われるような感覚に陥り入りました。
所持金もなく行く宛てもないことを告げると幸いにもそこで働くことが許されます。
その客で中島佐一郎というクリスチャンとの出会いが、五十嵐の人生を大きく変えさせました。
はじめてキリストの福音(神の救いの物語)に触れた五十嵐は、「イエス・キリストを自分の救世主」と信じ、生涯信仰していくことになるのです。
運命の決断~私は洗濯屋をします
国へ帰りたいが旅費がない。
小樽から函館へと移り仕事を探し、見つかったのが洗濯屋の水くみの仕事でした。
運命とはすごいものですね、この経験こそが後に「白洋舎」の創業につながっていくのですから。
勤め先の加藤洗濯店は小さな店でしたが、港が近くにあったため仕事は忙しく、また五十嵐もよく働き仕事も取ってくるので店主によくほめられていたそうです。
やがて五十嵐の心の中に伝道心が芽生え出します。
東京で神学を学びたいと説明し、加藤家から休暇をもらって上京しました。
しかし、いろいろな事情もあって神学校へ行くことができず、「三井呉服店」…現在の三越に入社することになります。
こうして十年間働き、その間に妻子にも恵まれ幸せな時間を過ごす五十嵐でしたが、また転機が訪れました。
五十嵐の所属する官省部が廃止されたことで、世話になった上司も退職することになり、それに伴い自らも辞職する願いを申し出たのです。
このとき辞職を止めた上司に対し、五十嵐は目を輝かせ「私は洗濯屋をやります」と言い切ったそうです。
困難なドライクリーニング
五十嵐が洗濯業を選んだ理由は、函館での経験と次のような思いが合致したからでした。
- 第一、長年お世話になった三越の営業の妨げにならないこと
- 第二、三越をお得意様としてできる商売であること
- 第三、資本金が多くかからないこと
- 第四、嘘や駆け引き無しでできる商売
- 第五、人々の利益となり害にならないもの
- 第六、日曜日には礼拝に出席できること
自分には才能も学問もない、それなら人が嫌がる商売をするしかない。
それなら清掃業か洗濯業…
そこで体力に自信のない五十嵐が選んだものは洗濯業だったのです。
最初は東京の日本橋に古い二階建ての家を借り、「白洋舎」と看板を出したのが始まりでした。
「白洋舎」という社名は、五十嵐が信仰するよき師である浅田喜三郎が経営する、「洋白会社」にちなんだもので、少しでも近づきたい気持ちから付けられたようです。
また、「社」ではなく「舎」の字を使っていますが、そこには将来いかに会社が大きくなろうとも、小さな牧舎のような気持ちを持って経営していきたい…という意味が込められています。
これも五十嵐の思い入れが強く感じられるエピソードの一つですね。
お得意様は三越、さらにそのつながりでお客はどんどんと増えていきました。
水を使わないで洗濯できるドライクリーニングのことを知り、五十嵐はその研究に没頭します。
その甲斐あって、明治40年4月、食用ラードとアンモニアを化合させることでベンジンソープを作り出すことに成功し、品川大井町に日本初となるドライクリーニング工場を完成させたのです。
全国に生き続ける五十嵐健治の思い
白洋舎は順調に成長していき、大正9年5月3日「白洋舎クリーニング株式会社」となります。
まだ小さな会社ではありましたが、当時ドライクリーニングはとても珍しく、世間から注目を浴びていました。
五十嵐は「もしこの事業が失敗すれば、日本全国の洗濯業の信頼に傷が付く。また、創業者である私がキリスト信者であることも広まっているため、神様の聖名にもかかわる」と責任感を持ち、経営方針をこう掲げています。
- 一、どこまでも信仰を土台として経営していく
- 二、奉仕事業、国益事業であるということを確認する
- 三、すべてのことに同業界の先駆者開拓者をもち任ずる
- 四、学術的研究に重きをおいて化学科を完成させる
- 五、禁酒主義をあくまで実行する
このように白洋舎は現在も五十嵐健治の信念のもとに、日本各地で発展を続けています。
五十嵐健治の晩年
その後、昭和16年12月に社長の座をしりぞいて、昔からの願いであった神学校に入学しています。
また、北海道から鹿児島にかけて旅をし、福音を語り続けました。
昭和32年には「クリーニング業者福音協力会」を起こし全国で公演活動、産業安全運動なども積極的に行っています。
これらの功績が認められ、昭和30年には「藍綬褒賞」、40年には「勲三等瑞宝章」を授与し、その7年後かぞえで96歳の天寿をまっとうしました。
五十嵐の苦難と行動力があったからこそ、今のクリーニング業界があるといって良いですよね。
現在、白洋舎は全国に855店舗を展開。
クリーニング店の他、ユニフォームレンタル、リネンサプライなどの事業の実績も伸ばし、日本を代表する会社となりました。
今でも創業者、五十嵐は皆が自分の教えに背くことがないよう、天から見守っていることでしょう。